2020年8月訪問
千歳樓(ちとせろう)とは
愛知県春日井市玉野町にかつて存在した旅館です。
春の桜や秋の紅葉が楽しめ、渓谷の風景と付近の定光寺を観光資源とした「名古屋の奥座敷」として多数の客を集めました。
千歳樓の客のなかには政府系金融機関の総裁をはじめ、事業家、高僧、文人などもいたといい、多数の芸者が呼ばれたといいます。
こうした活況は昭和30年代まで続きましたが、自家用車の普及などによって徐々に信州、飛騨といった場所に名古屋からの観光客を奪われるようになっていきました。
長年仕えた従業員22名は解雇され、2003年に6億円の負債を抱えて倒産しました。(Wikipedia参照)
千歳樓年表
1928年 | 千歳樓社長・櫻井喜美夫の祖父が名古屋で料理店『千歳楼』創業 |
1952年 | 株式会社化 |
1954年 | 現在の春日井市玉野町に移転し、旅館業開始 |
1994年 | 最盛期。年商10億円記録。ここをピークに来客数減少 |
2003年 | 6億円の負債を抱え倒産。従業員22名解雇 |
2005年 | 荒廃が進む |
2008年4月 | 火災発生。エレベーターホールや大広間が焼ける |
2008年8月 | 不審火により大火事発生。 不法侵入も増え、消防本部が侵入対策としてフェンスの設置やパトロールを行う |
2012年8月 | 16歳の少年と名乗る人物の通報により、旅館1階から身元不明の白骨化死体が見つかる |
2017年 | 肝試しのために侵入した高校生9人が書類送検 |
千歳樓最盛期
総合結婚式場を併設しており、本格的な日本料理も有名でした。
最盛期の1994年には年商10億円近くを記録したこともありましたが、その後、来客数は減少していきました。
付近に最も多い時で8軒あった旅館は、すでに1999年時点で千歳樓を含めて2軒にまで減少しました。
千歳樓は、瀬戸焼ツアーの計画をしたり、著名な料理人を総料理長として招聘し同時に料理教室を開催するなどの経営努力を行ったものの、2003年に6億円の負債を抱えて倒産しました。
長年仕えた従業員22名は解雇されました。(Wikipedia参照)
衰退した原因として自家用車の普及などによって徐々に信州・飛騨といった場所に名古屋からの観光客を奪われるようになっていったからと考えられます。
千歳樓火災
〈2008年4月〉
2008年4月5日に旅館屋上の枯れ草から出火し、エレベーターホールや大広間が焼けた。
〈2008年8月〉
2008年8月22日火災発生。火事は5時間に及ぶ大火事となり、木造平屋風呂棟と木造二階建事務所の合計200平方メートルが焼けた。
白骨死体発見
2012年14日午後11時10分ごろに「白骨遺体がある」と16歳の男性から匿名で通報がありました。
春日井署署員が確認に行くと、建物の1階部分に性別不明の遺体が座った状態で1体見つかった。遺体は半袖シャツ、ジーパン、下着を2枚ずつ重ね着していて、目立った外傷は確認できなかったといいます。
千歳樓には2012年に死体が発見される前より11年頃から白骨死体があるという情報は流れていて、それがこの元旅館の一番の名物であり、もともと有名な心霊スポットだったそうです。
そこに実際死体が出たことにより愛知最強の心霊スポットと呼ばれるようになりました。
現在の千歳樓
放火の熱でぐにゃりと歪んだ国際観光旅館千歳樓の看板の文字が悲しい
旅館の裏側。しっかりとバリケードがされている。
監視カメラも至る所にあり、計6台の監視カメラが設置されているらしく、今現在千歳樓に潜入することはかなり困難といえる。
今の潜入ルートは川を渡り、よじ登るくらいしかないのではないか。川の流れも速い為不可能だと思うが…。
右側の千歳樓本館北にあるコンクリートの1階建ての建物は当時愛知万博の来客を見込んで新しく建てた大浴場だった場所。
2008年8月の火災により浴室と、その右隣にあった事務室が全焼した。
端から端までバリケードがされている。
2階の扉が開いていたが、監視カメラがあるためこの扉に近づくのも難しいといえる。
千歳樓は建物の根抵当権が大手都市銀行から債権回収会社に移り管財人との連絡も取れなくなったため、取り壊しを行うことは難しいらしい。
今現在は現地の消防本部が侵入対策としてフェンスの設置やパトロールを行っている。
まとめ
いつか必ず訪れたいと思っていた愛知最強の廃墟、愛知最強の心霊スポット、千歳樓。実際訪れてみて、迫力がすごかった。
今はこんなにガラスも割れていて放火で建物も荒れているけれど、最盛期は沢山の人がこの旅館で楽しい時間を過ごしていたんだなあと考えると、なんとも言えない不思議な気持ちになる。
残念ながら千歳樓の当時のCMをいくら探しても見つけることができない。もしできる事なら昔の最盛期の旅館の雰囲気を味わってみたかった。